高校国語が抱え続ける課題と「現代の国語」(1)

本記事(全5回)では、学而図書より2022年6月に刊行された『「現代の国語」はなぜ嫌われるのか 高校国語の歴史研究と実態調査が示す新たな可能性』(笠原美保子 著)要旨の解説を通して、国語科目「現代の国語」の成立背景、戦後から残る高校国語の課題、課題克服への道のりなどを概観していきます。

「現代の国語」導入をめぐる混乱

2022年4月に新科目「現代の国語」が全国の高校で導入されてから、はや2年が経過しました。この科目については、教科書の採択をめぐる混乱が大きく報道されたことをご記憶の方も多いかもしれません。

当時、文部科学省が示した「文学作品の入る余地なし」という事前の了解を守らず、芥川龍之介の「羅生門」をはじめとする定番の小説教材を掲載した教科書が検定を通過したことは、多くの教科書出版社に衝撃を与え、一つの事件として語られました。

また、この新科目に対して、高校国語で取り扱える文学作品の数が大きく減ることへの反発が各方面で生じていたことも、事態の混乱に拍車をかけました。新たな指導方針を「文学軽視」ととらえた文学者や識者による反対意見が数多く公開される中で、教材としての文学作品の重要性を見直すべきという論調は、すでに世間に広がりつつあったのです。

こうした状況のもと、定番の小説を掲載し、「従来と同じイメージで使用可能」と謳った1)第一学習社の教科書は、以前と同様の授業が可能であると教育現場からも歓迎され、あろうことか全国で採択率トップの座に駆け上がってしまいました。ことここに至り、文科省の方針を遵守してきた教科書出版各社から怨嗟の声が巻き起こったのも、無理からぬ話だといえます。

1)その後、文部科学省の指摘により、同社は2021年8月に教科書内容の一部を訂正した。

混迷の中でかき消えた本質論

しかし、当時の状況が混迷を深めたからこそ、この新科目の成立目的や存在価値を問う本質的な議論は、残念ながら(限られた場を除いて)一方的にかき消されてしまったのではないでしょうか。

「文学軽視」を憎む論調の中で、以前と変わらない内容の教科書があらわれ、今までと同じ授業をなし崩し的に成立させたい教員側の思惑もそこに流れ込みました。その結果、似通った論点の、ある意味ではステレオタイプな批判が繰り返し表出し、「現代の国語」の根底に迫るような批判的検討・建設的検討は、決して十分には行われていなかったように私には思えます。

このような状況に一石を投じるため、2022年6月に刊行されたのが『「現代の国語」はなぜ嫌われるのか 高校国語の歴史研究と実態調査が示す新たな可能性』です。

同書は、国語教育史の研究成果に基づいて「現代の国語」の位置づけを再確認するとともに、高校国語科が目を背け続けてきた課題を明らかにし、過去の失敗を踏まえた克服策を提示しようとする意欲作でした。日本教育新聞(2022年10月24日号)に掲載された以下の書評(抜粋)は、同書の本旨を端的にあらわしています。

 第1章「『現代の国語』教科書に小説を載せてはいけないのか」、第2章「『現代の国語』の先輩たち」、第3章「『現代の国語』の課題と可能性」という構成は時宜を得ているだけでなく、古くて新しい課題に迫る。かつての著者の高校調査、インタビューから「話すこと・聞くこと」「書くこと」がなぜ現場で狙い通りに機能しないのかが、浮かび上がる。
 本書は、だから「嫌われる」と強調したいわけではない。むしろ、「現代の国語」を評価し、現場の意識に合わせながら、生徒に必要な力を付けるための在り方を提案することに軸足がある。この提案をどう受け止めるか。国語は教育活動の根幹。国語教員だけでなく、高校関係者にも、ぜひ読んでほしい。

日本教育新聞(2022年10月24日号)

「現代の国語」に至る国語教育史と、今なお残る課題

「現代の国語」の価値を真に検討し、この新科目を実り豊かなものとするためには、「過去の高校国語科において、類似科目がことごとく反発を得て失墜してきた」という歴史的課題の把握と、その要因の分析、さらには課題克服への手段を明らかにせねばなりません。

これから本記事では、同書の要旨を整理しながら、以下のような話題に触れていきたいと思います。

  • 新科目「現代の国語」成立の背景(第2回)
  • 戦後「新教育」から続く「話すこと・聞くこと」「書くこと」指導の問題(第3回)
  • 過去の類似科目「国語表現」「現代語」で生じた事態(第3回)
  • 「話すこと・聞くこと」「書くこと」教育が高校国語で充実しない理由(第4回)
  • 高校国語の課題を克服するための方策と授業実施案(第5回)

(その2につづく)

笠原 正大

笠原 正大

学而図書 代表

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