出版者から見た科学誌『TEN』発行の意義

日本ハンズオンユニバース(JAHOU)集会2023 報告内容

2023年3月26日、日本ハンズオンユニバース(JAHOU)集会2023(於:理化学研究所 和光キャンパス研究本館435-437会議室)において行われた、学而図書によるご報告の内容です。当日は短くお話しした部分も、本来の形に書き改めました。

学而図書について

神奈川県横浜市で小さな出版事業「学而図書」を営んでおります、笠原と申します。これまで学而図書では、本日ご講演の戎崎俊一先生が責任編集をお務めの科学誌、『TEN』の発行をお引き受けまいりました。本日は、この『TEN』について皆様にお話しするお時間を頂戴し、誠にありがとうございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。

まず、簡単に本事業のご紹介をいたします。学而図書という名前は、『論語』の「学而第一」からお借りしたものとなっております。もはや私の同年代にも「学而」の意図が通じないのですが、いまなお『論語』は私の愛読書です。

そもそも私は、18年ほど学校教育の現場で、お恥ずかしながら教員という仕事に就いておりました。ところが、厄年にあたる四十の頃に、突然原因不明の病に倒れ、もはや教壇に立つこと能わずと相成りました。いまも、こうして15分ほどお話しするのが、私の身体の限界とお考えください。

さて、私は教職から離れ、社会にも緩やかな別れを告げねばならないと覚悟いたしました。しかし、その前に、これまで私のような若輩者を温かくお迎えいただいた先生方に、何かしらご恩返しをしてから去るのでなければ、人としての義理を欠くのではなかろうかと考えました。

こうして、なけなしの貯蓄と体力をはたいてつくったのが、この学而図書でございます。優れた知見の散逸を防ぎ、社会に貢献するという、人間としての最後のご奉公のつもりで運営を続けている次第です。

それではまず、学而図書で『TEN』発行をお引き受けすることになった経緯をお伝えいたします。おそらく、それが本日のテーマ「意義」についてお話することにもつながるかと存じます。

科学誌『TEN(Tsunami, Earth and Networking)』現在までの歩み

私は、最新巻である第4巻の編集後記に記された戎崎先生によるメッセージが、『TEN』の性格を最も的確に表したものであると考えております。

「諸科学を巻き込んだ議論の基盤を提供し、斬新な意見を勇気を持って提示することを重視し、それを科学的・生産的議論を通してより確かなものとする場を提供する」

これが可能な媒体・メディアは、いまや非常に貴重です。この言葉で、『TEN』発行の意義は既に語り尽くされている気もいたしますが、本日は、これに少々、蛇足となるお話を付け加えたく存じます。

『TEN』は、国際津波防災学会の機関誌として刊行されました。その性格は、従来の学会の枠組を超えて、研究機関、民間企業、教育、行政、政治など、あらゆる分野の人々が集まり、最新の知見を有機的に交換し、もって科学研究・防災研究の本質的・実践的な議論を行おうというものです。本日の集会でも話題となった「超学際」という表現が、この試みに最も近い言葉ではないでしょうか。

たとえば、従来、地震による巨大津波の原因は、プレートの跳ね上がりであると一般に信じられてきました。しかし、丸山茂徳先生をはじめとする地球惑星科学の先生方が論じられたように、東日本大震災で発生した津波の規模は、プレートの跳ね上がりのエネルギーでは説明できないともいわれております。

『TEN』第1巻をご覧ください。国際津波防災学会は、大規模な海底地滑りの可能性に注目し、世界各地の過去の津波の原因分析の報告など、非常に興味深い観点から議論を深めております。また、『TEN』第2巻においても、既存の常識にとらわれない、真に防災を実現するための議論が重ねられております。

私は病に倒れる以前に、丸山茂徳先生から『TEN』編集業務への参加を要請されておりました。しかし、教職の立場にあって編集に携わることは非常に難しく、先生方のご期待にお応えできないことを、かねがね心苦しく思っておりました。

その後、学而図書を創設し、まず取り組みましたのが、優れた媒体である過去の『TEN』の保全、および第3巻の発行となります。幸いにして、第1・2巻へのISSNコード(International Standard Serial Number:国際標準逐次刊行物番号)付与が実現し、第3巻からは商業出版のベースにも載せることができました。第1・2巻は今後も国会図書館での検索・閲覧が可能ですし、第3巻以降の『TEN』は、国内の主要ネット書店や、入荷をご希望いただいた全国の書店での販売が可能となっております。

さて、第3巻では、この年の初めに話題となったフンガトンガ・フンガハアパイ火山噴火、そして、年々被害を増す河川災害の対策研究が特集として報告されています。トンガ噴火については、2022年の1月に発生した自然災害に対し、同年の3月に書籍を通しての報告が為されたわけですので、国内最速級といって差し支えないタイミングで論稿が掲載されたことになろうかと存じます。

そして、昨日発売されたのが、第4巻となる『COVID-19対策技術のいま』です。新型コロナウイルス対策技術の最先端を、国内有数の研究機関・企業で研究開発にあたる第一人者ご自身が報告されるという、非常に充実した一冊となりました。本日のご講演で戎崎先生がお話しされた、海洋低層雲による気候変動への緩衝効果も、より詳細な論考として掲載されておりますので、ぜひご覧ください。

科学誌『TEN』発行の意義

それでは、本日お集まりの皆様は、この貴重な媒体である『TEN』が、大いに売れるに違いないとお考えになるでしょうか? おそらくその答えは明白なもので、非常に難しい、この一言に尽きるでしょう。皆様もご存じの通り、日本では、すでに優れた科学誌・科学雑誌の廃刊が、ずっと以前から続いております。そのような状況のもとで、新たな科学誌、しかも学術誌に近い科学誌を多く販売するなどということは、実に困難を極める行いです。

それでは、このようにたくさん売れないものには、発行する意義がないのでしょうか?私は、そのようには考えません。書籍であれ、思想であれ、人類の社会にとって価値があるかどうかは、その時、その時代の多数決では決まらないからです。

ただいまから、私はまったく学術的根拠のないお話を申し上げます。このように本日お招きいただいた以上、書籍のもつ意味に関して、私自身の考えを偽るべきではないと考えるからです。こうした場で根拠のない発言をすることには、たいへんお恥ずかしい思いがいたしますので、ここから先はスライドがございません。

私という個人は、人間の知性というものを信じたいと考えております。優れたものを選び、後へと遺す、人間の知性です。しかし、それは誰かひとり、特定の個人の知性、といったものではありません。また、その時生きている人間たちの、主流となっている知性や知識でもありません。私は、人間全体の、集合知とでも呼ぶべきものを信じたいのです。

現代においては、集合知というと、インターネットやAIなどという話になってしまいがちです。あるいは、多数決こそが集合知と思われる向きもあるかもしれません。しかし、それらは完全な誤りです。そもそも、人間社会において、その時点の人間が行う多数決は、頻繁に誤りを犯します。民主主義の根本を誤解した風潮や教育によって、多数が認めるもの、多数決で勝つものが優れていると思われがちな時代ですが、まったくそうではありません。

ガリレオ・ガリレイは、晩年を半ば軟禁された状態で過ごすことになりました。その理由は、この集まりの皆様にご説明する必要はないことかと存じます。孔子もまた、時の為政者からその理想を受け入れられず、老齢になっても流浪の旅を重ねました。そして、60歳を過ぎてなお、旅の道半ばで食料が尽きて苦しむといった辛酸を嘗めています。

ソクラテスを殺したのは、当時の市民によって開かれた裁判です。哀れに許しを請えば死を免れたであろうソクラテスは、誇りをもって裁判に臨み、それを許さない参加者たちによって死刑に処されました。イエス・キリストを殺したのも、やはり多数の人間の意志です。ローマから派遣されていた総督のピラトは、イエスに何の罪も見いだせませんでした。イエス・キリストの死を望んだのは、多数の民衆に他なりません。

多数決は、時に賢者を殺します。しかし、これは実に不思議なことですが、多数決の果ての迫害や喪失を超えて、真に優れた知性が遺したものは選別され、人類の社会において継承されてゆきます。それが、私の信じたいと願う、人間の集合知というものです。

人類は、絶え間なく知性を発揮し、交流し、運動させつづけています。その運動の中、錬磨の中で、真に優れたものだけが、磨かれ、この巨大な運動に耐えうる形を得て、後へと遺されるのではないでしょうか。いま仮に、運動する知性を、炎にたとえてみます。その炎にくべられる薪こそ、書物、より正確にいえば、文字として書かれたものである、と私は考えます。

絶え間なくくべられる薪によって、人類の知性は常に運動を続けています。そこで何が優れたものとして選ばれるかは、個人が決めるのではありません。その営みの果てに、個人の意図を超えた、人類全体の集合的な知性によって選ばれるのではないかと、何の学術的根拠もなく、私は信じているのです。

この私にできることは、ただ自身の目で価値があると判断したものを言葉に替え、その人類の知性のなかに投げこむという行為だけです。私が出版者として担うべき仕事は、己が価値あると信じたものを散逸させず、書物として形を整え、流通させ、運動する人類の知性に投げこむという営み、ただそれだけだと考えます。

そして、私は出版を始める以前から、『TEN』という書物に、その価値を感じておりました。本日のテーマである「出版者から見た『TEN』発行の意義」とは、人類の知性という絶え間ない運動、そのなかに投げこむ価値ありと信じるに足る、新たな薪が、この世界に生まれたということではないでしょうか。

私は、その薪を、粛々と人類の社会に投げ入れます。その果てを知りたいと願うのは、おそらく、いち出版者の身にはおこがましい話なのでしょう。祈りに近いような思いをもって、私は『TEN』という書物の発行をお手伝いしてまいります。本日はお時間を頂戴し、誠にありがとうございました。

(学而図書 代表 笠原正大、2023年3月26日)

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