人間にとって表現行為とは何か

表現とは、人間の唯一の所有物である意志のもと生み出される行為であって、その根底には常に祈りを伴うものであると私は考えています。


私が代表を務める学而図書は、巨大な運動を続ける人類の集合的知性に対して新たな出版物を燃料として投げ込むこと、ただそのためだけに存在している事業です。

誤解を恐れずにいえば、私にとって「出版」とは祈りに近い意味合いの行為であり、本やウェブメディアは、そのための供物にほかなりません。

それと同様に、人間の「表現」という行為には、必ず祈りが内包されていなければならないと私は考えています。そして、表現行為の産物である作品は、やはり供物として、この世界に捧げられるべきものです。

これは、いわゆる宗教観のようなものとは全く異なり、人間おのおのが(法的な側面とは全く別個に)根本的な権利としてただひとつ有している、意志の自由、精神の自由と密接に関係しています。少なくとも私は、そう思っています。

私たちが何かを表現したいと心の底から願うとき、それを止める権利は他の誰にもありません。また、世間一般の常識や感覚、あるいは通念を超えて何かを美しいと感得したのなら、自分自身以外の他者に、それを否定する権利などありはしないのです。


もちろん、世間の感覚からあまりに離れていれば、表だっては止められたり、けなされたり、無視されたりもすることでしょう。作品を売りに出しても、誰ひとり手に取ってくれないかもしれません。挙げ句の果てには、自身が影響を受け、表現する衝動のきっかけとなった人物や集団からすら、その営みを否定される恐れだってあります。

しかし、私たち自身が身を投じるようにして為す祈りと、世の中の評価の間には、まったく関係がありません。……そうですよね?

その時代の誰もが共感して納得できる綺麗さ、心地よさ、金銭的な価値、善悪の基準、そういったものは常に変化し、揺れ動き続けています。

私たち人間は、昆虫であれ魚であれ、とにかく人類以外の生物が生まれながらに持っている「何をして生きることが正しいか」という本能の大半を欠落させて生まれ、後天的にそれを形成していく生物です。そして、私たちは成長の過程で、その時代や共同体ごとに共有される一般的な趣味嗜好・美的感覚を、自らの内に養っていきます。

だからこそ、多数が共有する「いい」という共通感覚を、個人単体で乗り越えることは極めて困難です。そのような中で、ただひとりだけが圧倒的な自我と内面の吐露をもって表現する作品は、「よくない」「不快だ」と他者から貶められ、唾棄され、排斥すらされたとしても全く不思議ではありません。


しかし、どれほど拙くとも、たとえ今の世では誰一人それを認めてくれなくても、私たち自身が表現することを止められないのなら、ためらわずに行えばよいのです。

少なくとも近代社会において、単なる技術は表現行為における最上の構成要素ではありません。形式的な身分や所属、生まれや育ちだって、たとえ有利・不利があるにせよ、表現行為それ自体を妨げることはないでしょう。

そして何より、いかなる時代にあっても、自らの意志をもって全身全霊で祈りを捧げる行為は、私たち自身に備わった本質的な自由であって、誰にも邪魔されることがないものです。

日々の糧を得ながら表現を続けられるのならそれにこしたことはありませんが、たとえ飢え死にしようが、迫害されようが、手段を選ばず、自分自身の祈りは手放すべきではないと私は考えます。

……いやまあ、迫害されるのはおっかないですから、とりあえず隠れて祈ったっていいではありませんか。うっかりバレたり、どうしても表に出したいというのなら、もう腹をくくるしかありませんが。


表現に伴う祈りは、それが個人を起源とするときもあれば、共同体が連綿として受け継いできたということもあるでしょう。世間一般の価値観と真っ向から衝突する祈りもあれば、うまく折り合える祈りもあるはずです。

無欲の産物もあれば、泥の中で足掻くような感情から生み出された作品もあるかもしれません。聖人君子によって為される祈りもあれば、私のようなろくでなしが為す祈りもあるのだと思います。

そして、渾身の祈りの果てに、その表現が天を突くものなのか、はかなく散る徒花であるのか、それを決めるのは同時代の人々ではありません。その時代のあらゆる人に否定されても、真理に迫る表現は、あるいは人間の感覚世界を新たに拓く作品は、本人の生死や心情とは無関係に、人類全体の資産として遺り、次の時代へと受け継がれてゆくのでしょう。

悲しいかな、それは表現を為した当人にすら窺い知れない結果であり、ただ孤独の中で自分の信じる祈りを捧げきって死んでいく表現者の覚悟と苦痛はいかばかりかと、想像するだに恐ろしくなります。


いずれにせよ、この世界で人間が「自分の持ち物である」と断言してよいのは、たったひとつ、私たち自身の意志だけです。その意志の行使をもって為されるのが表現である以上、それを奪うことは、根本的な意味で誰にも為し得ません。

一方で、表現行為の根本が欠けたまま作り出されたものは、一方的に消費されるだけの、単なる物体や情報です。

もし、勝手にうまい文章を書いてくれる機械があったとしても、出てくるものに自分自身の熱が刻み込まれていないなら、その行為に何の価値があるというのでしょうか。そんなことをする理由は、商売か、成績か、おおよそそんなところでしょう。別に、機械を使ったってよいのです。問題は、その行為の根本に自身の衝動が伴うかどうかではありませんか。

下手くそでも拙くても読みにくくても、文章とは、あるいは作品とは、私たち自身の祈りがその根底に叩き込まれたものであるべきです。

ひとり出版・学而図書は、そういう考え方でもって、零細きわまりない事業活動を続けています。機械が使えようが使えまいが、インターネットが発展しようが滅びようが、人間の営みから表現行為そのものが絶えないのなら、何かの切れ端に文字を削り込むようにして、私たちは祈りを重ねていけばよいのだと、そう思うのです。

笠原 正大

学而図書 代表

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